文章が読めない、ということ

今日はいつもの私はあまり口にしない、かなり”ふんわり”とした勉強のお話です。

私はそれほど読書家ではありませんが、それでも一時期ミステリーにハマり、有名な作品を読み漁っていた時期があります。古典では江戸川乱歩や横溝正史、またその後は新本格派の綾辻行人や我孫子武丸、また京極夏彦や森博嗣なども好きでしたね。

ミステリーに限らず小説は、その物語を自分の頭の中でイメージできないと面白みを感じることができません。何かの具体的な事実を説明しているのではなく、あくまでフィクションなのですから、その物語の面白さを体験するのが読書の目的になってきます。

さて、生徒たちを見ていると「文章が読めない子」が少なからずいることが分かります。その子たちは、決してふざけているわけでもないですし、本当に理解が伴っていないほどの学力の低さもないのです。そしてある程度言葉の意味も分かるし、それが意味していることも納得はするのです。けれどもその内容が「腑に落ちない」状態のまま読んでいるのですね。

そういう生徒たちに話を聞いていくと、決まって「文章で書かれている内容をイメージしていない(できていない)」のです。いやもっと言うと、そうやって文章を読むということを”知らない”のです。

だから文章を読むときに、言葉と言葉の意味をつないで何となく納得はするものの、結局そこで書かれている内容が頭に入りきれないのです。またその状態で読み進めてしまうので、今度は言葉の洪水ですぐに頭がパンクしてしまうのですね。

以前、ある先生がおっしゃっていたことが「こういう生徒は『息を止めて水に潜っているような感じ』で文章を読んでいるのだ」と。これは言い得て妙だと感じます。そういう生徒たちを見ていると、本文を読み進めていくうちに言葉の多さでだんだんと苦しくなっていき、息が続かなくなってしまうのですね。

例えば「桃太郎は熊にまたがりお馬の稽古をし、金太郎は犬・猿・キジを家来にして鬼ヶ島に行きました」みたいな文があったとしましょう。私なんかはこういう文があったら「これって”桃太郎”と”金太郎”が逆じゃない?」とか「よく考えたら、金太郎はどうやって犬・猿・キジを家来にできたのだろう?」(補足:桃太郎だからこそきびだんごを持っていたのであって、金太郎ならば違う口実で家来にするはずだから)とか、そんなことをつい考えてしまうのです。

けれども読めない子はそういうことを想像もしないのです。分からないのではなく、そう考えるということを思いつかないのです。だからこちらが「これって普通に考えたらおかしな文だよね」みたいに言うと、そこでようやく「あ、そうですね」みたいになるのですね。

これだと自力で国語の問題を解くことはとても難しいものです。生徒の試験中、問題の文章一つ一つについて横から「これは○○だよね」なんて指摘をすることはできませんからね。

こういう状況を打破するためには、やはり読書をするということが回り道のようで一番の近道なような気がします。その読書も、できれば自分の頭できちんとイメージが必要となる小説などがいいように感じます。

そうすることで身の回りにある文章を、より深く自分に受け止めることができるようになるのです。・・・これは実は、国語の成績や点数がどうこうという問題ではありません。その生徒が生きていくために必要な力を身につける、ということなのです。

今の中高生は勉強や部活などで相当な時間が取られており、余裕を持って読書をするという習慣が少なくなっているように思われます。しかし感受性の高い学生時代に多くの本と触れることは、後からは取り返すことができないとても貴重なことなのです。ぜひ多くの本に触れ、そして読書の楽しみを知った上で、さらに多くの文章を受け入れていってほしいものですね。

・・・ちなみに念のため。今回のお話は「国語の点数を上げるために読書をしよう」ということではありません。国語の点数を上げるためにはいろいろな勉強があり、いろいろな方法もあります。読書をしていれば自然と国語の力が上がる・・・なんてことはありませんので、その点はご注意を。

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